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笹埜能史展 VAULTING HORSER2(跳び箱2)- Funny but Empty 笹埜の「コミュニケーション」への過剰サービスは、サービス精神を発揮すればするほど、メッセージは「謎」を深めていく。発信者と受信者との間のキャッチボールを試みているが、結果として二者の間に微妙なズレが生じる。この場合、発信者は受信者に受信者は発信者にと、相互に役割が入れ替わる。そこで取り交わされるメッセージが、お互いの思惑からズレればズレるほどまた、そのジェスチャーが大仰でその上、真摯で愚直であればあるほどそのズレが大きくなり、笹埜の言う「おかしみ」が醸しだされる。さらに、このやり取りを見ている第三者(「会話」の当事者でない受信者―観客)にナンセンスユーモアが生起する。関西人の言う「あほらしい」である。ここに笹埜の初期の漫画家としての素性が顔を覗かせる。 今回笹埜は、「市場」の空間に「跳び箱」を出現させた。跳び箱は学校以外では見られないものである。小学生時代の体育の時間を思い出す。青空の下、運動場で思いっきり跳び箱に向かって走る。跳躍板をける。跳び箱の背を突き上げる。体が宙を舞う。その一瞬異次元にワープするような空白の時間を体験する。懐かしい。 しかし、この跳び箱は学生時代によく見慣れた跳び箱ではなく、横っ腹が円形に刳り抜かれている。その上1.5倍も大きく造られている。跳ばれることを拒絶しているとしか思えない。ところが、一方ギャラリーの片隅に据えられたモニターではクレーンで吊り下げられ、跳び箱が飛んでいるような映像がエンドレスに流れている。しかし近寄ってよく見ると、スケーターズワルツにのって、空中で跳び箱がワルツを踊っているように見える。まるで空中舞踏会だ。しかし、優雅さはない。クレーンで吊り下げられ、無骨さが際立つ。力ずくの舞だ。 体育の時間、跳び箱が跳べない生徒がたくさんいたのを思い出す。基礎体力が落ちたと言われる昨今、生徒は跳べなくて困っているのだろう。教師としての笹埜の「サービス精神」はその「一瞬」を再現し、体験させてあげようとしているのではないだろうか。跳び箱の中は、乗り物のようにコージーな空間が設えてある。ゆれに備えてつり革が天井からぶら下がっている。クレーンで吊り下げられた跳び箱の絵が電飾のように輝いている。窓から、空中の自らを確認し浮遊感を味あわせるためなのか。ここでも、笹埜のサービス精神が、これでもかと、溢れている。 「跳び箱が飛ぶ!」、「跳び箱が踊る!」笹埜の素振りが真摯で愚直であればあるほど「受信者」とのコミュニケーションのズレは広がる。そのズレをまともに理解しようすると、スット背後に消えてしまう。肩透かしを食ったようになる。何ともつかみどころがないが、妙な魅力が後味のように残る。笹埜の思う壺である。そんな自分の「あほらしさ」加減に呆れる。笹埜の作品はコミュニケーションのズレを巧みに操作しながら観客を非日常の世界へ導いてくれる。 芸術作品の特性が日常の隙間をこじ開け、非日常の世界を垣間見せることであるのなら、笹埜の作品はそれを見事に具現している。 コンテンポラリー アート ギャラリーZone 代表 中谷 徹
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