グループ展「PRISM」Group Exhibition,"PRISM"
2010年3月20日〜3月30日
出品作家:John Dillemuth、はら けんのすけ、春成こみち、入江陽子、
伊佐地恵子、伊佐地麻夢、小泉光子
コンテンポラリーアートギャラリーZoneでの2度目のグループ展である。前回の、Zone-Review in 2009と異なり、かって一度もZoneで作品を展示したことがないアーティストによる展覧会だ。年齢、キャリア、メディアをのり越えZoneでひとつになり、7人のアーティストの個性が輝くPRISMの名にふさわしい展覧会を開くことが出来た。
泉 光子 ■
壁面にはB1の紙面に意図的に両面に描かれた数枚の抽象画がピンで留められている。その真下のフロアーには、屑箱の形体をした、透明のアクリルの箱(30cm×30cm×80cm)が設置されてある。タイトルは指示書とも思える「ちぎってまるめて捨ててください、もし元気があれば…」だ。
観客を挑発するように、壁面の抽象画を破いて破棄するよう指示している。破かれた箇所からは下の抽象画の一部が覗く。偶然性がその相貌を変容することを企図しているのだろうか。それとも、千切りとられた断片が用意された箱に集積される過程つまり、2次元の平面作品が3次元の立体作品へと移行する、そのプロセスを提示しているのだろうか。おそらくどちらも計算済みのことであろう。
このようにプロセスアートの要素はあるが、小泉は、通常、美術館やギャラリーでは作品に触れることが出来ないという不文律を敢えて観客に破るように強いる、その行為自体を美術の文脈に取り入れ観客との新しい関係性を築こうとしているのではないだろうか。
小泉の作品はそれ自体自立した作品として存在し得ないが、その行為が意味するところは大きい。
John Dillemuth ■
作品「Motel 60ユs」は9インチ×12インチのアクリル絵の具で描かれた小品6点からなる。1960年代のモーテルの室内を叔父が撮影した写真をもとに描いたという。
日本語の「モーテル」は、いかがわしい響きがあるが、私は60年代に放映された米国のテレビ番組「ルート66」を思い出す。華やかな若者の車(コルベッティ)、ピンクやグリーンの派手なネオンサイン(白黒の番組であったがなぜかカラーで思い出す)、レストランの店内のピカピカに輝くジュークボックス、といった、いわゆるアメリカの黄金時代を思い描く。二人の若者がコルベッティを転がす姿は実にかっこよかった。
ところがどうだろう、ディレマスの作品「Motel 60ユs」には、ハリウッド映画のきらびやかさは微塵もない。どの絵もパースペクティブを微妙にずらした、歪んだ大きな空間に小さく描かれた人物が身支度していたり、くつろいでいたり、時には素っ裸でくの字になってベッドに横たわっていたりする。室内の人間が極端に矮小化され、ベッド、鏡台、ドロアーなどがやけに丁寧に描き込まれている。
アメリカの内陸部を車で旅した人はわかるだろうが、想像を絶する大地の広さに目が眩む。ただ、ただ、真っ直ぐに伸びる道路の収斂する先を目指し、車を走らせる。行き交う車も皆無といってよい。巨大な空間に置き去られたようなむなしさと、己の卑小さを嫌というほど知らされる。夜になると闇底で点る蛍の火のようなモーテルのサインが、不安を掻き立てる。そこでは誰もが、ストレンジャーである。
ディレマスは中西部(アイオワ州)の出身と聞く。彼はモーテルにその頃のアメリカへの郷愁と同時に幼児期の体験と記憶が奇妙にない交ぜになった世界を想念しているのだろう。ストレンジャーである観客を60年代にタイムスリップさせ、自虐的にピープショウを演じているのである。
はら けんのすけ ■
現実に存在し得ないイメージを、はらは思いつくまま、筆を走らせたり、休止させたりして、紙面に定着させようとする痕跡が見て取れる。はらは、内面風景を手から紙面に投射するかのように、その心の軌跡を描こうとしている。
作品「On My Head」は、人頭が、いくつにも数珠のように連なったイメージにもかかわらず、まったく残酷さを感じさせない。それは、はらの中で昇華され、吐き出された産物だからだろう。その想像力は、羅針盤を失った舟が繋留地をもとめ、想像の海を漂流するような危うさを孕んでいるが、はらが日常からの乖離(かいり)を無意識に求め虚構と現実の境をさまよっているからであろう。次のはらの繋留地がどこなのか楽しみである。
伊佐地 麻夢 ■
「深い森の馬と詩」と「金持ちの家の鳥と猫」の2作品は、自由でのびのびとした何の屈託もない作者の若さが伝わってくる絵である。感性が先走りするでもなく天性の造形感覚に支えられ、しっかりとした絵画空間を作り上げている。
伊佐地は美術史の流れの中で一度は捨て去られた物語性を、再度絵画の中に取り入れた。それは宗教画でも、歴史画でもない。政治的色彩もない。ただ思いつくまま、物語の要素を絵画の中にちりばめることによって観客に、自らのシンタックスを援用し、物語を再構築させている。見るものの想像力に物語の完成をゆだね物語絵画という新しい美術の物語をつむぎだそうとしているのだろう。これからが楽しみなアーティストである。
伊佐地 恵子 ■
アッサンブラージュと呼ぶべきか、コンバインペインティングと呼ぶべきか、呼称はともあれ、伊佐地の作品は、私のメンターであるイタロー・スカンガ(Italo Scanga)の作品を想起させた。スカンガは、毎週スポーツアリーナで開かれているスワップミートで気に入った「廃品」を買い集めていた。伊佐地の場合はどうなのだろうか。見たところ、廃品の一つ一つには伊佐地の個人的な思い入れが見て取れるが、伺うのを逸した。
ウクレレ、試験管たて、ダンボール、スコップ、卵の容器などの廃品を寄せ集め、積み上げた表面は、ジェッソで覆われ、かすかに茶と緑の色彩が覗き見える。彩色により、積み上げられた個々の廃品の本来の意味は密閉され、新たな意味を生成している。
「黄昏の若い人」というタイトルをもつこの作品は、中心部に人体のような形象が表れている。今にも消え入りそうなタイトルのイメージとは裏腹に作品は、重厚で、しっかりとした構成力に支えられている。ただその形象が背景に消え入りそうにかろうじて認識できるのがタイトルを反映しているのだろうか。
伊佐地は現代の消費社会が生み出し、行き場がなくなった廃品で埋め尽くされる社会を新たな自然と見て、そこに美を見出そうとするネオダダイストであろう。ちなみに、伊佐地は絵画教室「ダダ」を主宰している。
春成 こみち ■
春成の作品「苦来(CRY)」は、私の記憶の中の一枚の写真を想起させた。母子が重なり合い黒焦げになっている写真だ。確か、広島原爆記念館を訪れたときに目にしたと思うのだが、記憶の中でイメージだけがひとり歩きして定かではない。
折り重なった肢体がギャラリーのフロアーに、展示されている、というよりも放棄された様に横たわっている。男女の区別はもちろん、目、鼻、口、指などが省略され、かろうじて人体であると判別できる状態だ。その明るい色彩により酷薄さが薄れているが、それだけではなくサイザル麻という材質により重量感が失われ、人体というよりも人の形をした繊維の集合体にしか見えない。肉体の持つ脆さ、儚さを提示しているのだろうか。全てのものが物質へと回帰することを強く意識をせざるを得ない作品である。
入江 陽子 ■
一見、この作品から誰しもデュシャンの「自転車の車輪」を思い描くだろうが、デュシャンにとっては、タイトルのごとく自転車の車輪は自転車の車輪である。後に、Tu m'(お前は私に…)の画面に影として現れるのだが、入江の「after rain」はそれとはまったく異なるものである。それは、オブジェの形象から想像を広げるピカソのアッセンブラージュに近い。
グレーと赤の雨傘がスツールの上で、あたかも一組のダンサーがワルツを踊ってでもいるかのように軽妙なバランスを保っている。心地よい緊張感がある。2本の雨傘を絶妙な感覚で、ただ組み合わせるだけで雨傘という本来の意味を消し去ってしまう手品を見るようだ。さりげないウイットを忍ばせたマッチングセンスと選択眼は、入江の並外れた造形感覚を支えている。
コンテンポラリー アート ギャラリー Zone 代表 中谷 徹
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