EXHIBITIONS

2010年 8月16日(日)〜8月29日(土)
谷口 新 展「A Voice of Cavity 」
Shin Taniguchi Exhibition, “A Voice of Cavity “

先日、ネットを何気なく眺めているとクリスチャン・ボルタンスキーの展覧会の記事を見つけた。彼が今まで取り上げて来たテーマ、第二次世界大戦中のユダヤ人、の延長線上にある作品である。実際に体感することなく、インターネットを通してという限られた形で作品と接触をしたわけだが、そこに感じたのは、この“今”という時間の中で自らの理性や感情が持つ歴史的な正当性を再確認することであり、一方で、再確認する行為が現在進行し続ける矛盾を覆い隠してしまおうとする事実であった。彼が提供してくれた装置に反応し、気付いたということかもしれない。私が目指しているのもそのような装置である。2002年からの作品群には一貫してa voice of cavityをタイトルとして使い続けている。cavityとはちょっとした“くぼみ”の意味である。一つの“くぼみ”から次の“くぼみ”へと、ぎこちなく続く繋がりに現代に生きる“主体”を感じるからだ。あっという間に埋め戻され、なめらかな表層に覆われてしまう、そんな“くぼみ”に接するには装置が必要であると感じてきた。ラカンが語った“既に決められた事を受け止める主体”は隠された“くぼみ”と共生することで可能性を見つけるかもしれないというヒントだったのかも知れない。
<谷口 新>

 

谷口新展「A Voice of Cavity」
 

アーティスト、谷口とはもう30年来の友人である。当時、共にカルフォルニア州立大学、フレスノ校の学生であった。大学時代、谷口と私はともにチャールズ・ゲインズ(Charles Gaines)教授をメンターとしていた。ゲインズは、ニューヨークで、最も権威のある画廊であったレオ・キャステリ(Leo Castelli)画廊で個展を開くほどで、当時新進気鋭のアーティストとして雑誌「アートニュース(Art News)」、「アートインアメリカ(Art in America)」、「アートフォーラム(Art Forum)」などにも頻繁にとりあげられていた。しばらくして、ゲインズは、カリフォルニア美術院(California Institute of the Arts)の教授として迎えられた。谷口もその後を追うように大学院に入学した。

彼の授業ではフォームや色は二義的なものであり、何よりも、作品制作意図の説明を要求された。「言葉」と「イメージ」を等価とし、その関係を徹底的に掘り下げる。おそらく、現代美術における谷口の立地点は、ゲインズによって築かれたと言っても過言ではないだろう。

展覧会名、“A Voice of Cavity”。会場の中央部にモニター1台、椅子2脚そしてヘッドホーン二組。机に四つ折にされたA4の用紙の束。壁面にアーティスト・ステートメント。モニターには、白黒の映像。詩の朗読がそれにかぶる。非常にミニマルなインスタレーションである。禁欲的な雰囲気さえ漂う。観客には一切媚ないアーティストの姿勢がうかがえる。A4の用紙には一編の英文の詩に和文(翻訳)が併記されている。タイトルは明示されていない。おそらく、展覧会名と同じ“A Voice of Cavity”なのであろう。しかし、タイトルの和訳はない。アーティスト・ステートメントには、「cavityとはちょっとした“くぼみ”の意味である。」とだけ記されてある。

今回の谷口作品は「詩」の役割が非常に大きい。白黒の静止映像に詩の朗読が流れる。重々しく心の闇に響くような声音。牧師の説諭にも似た調べ。しかし、すべてが英語で吟じられている。谷口は日本語よりも英語の音韻を、表現手段として選んだのであろう。

数十年前、友人が「言葉はむなしい」とよく漏らしていたのを記憶している。どのような文脈で発したのか失念したが、言葉で人間の脳裏に浮かんだ事柄(世界や意識のありのまま)を第3者に100%伝達したり共有したりすることの難しさを嘆いていたのだと思う。デリダの出現(記号としての言葉と事柄の「ありのまま」とのズレは決して避けられない)を待つまでもなく、伝達手段としての言語の「欠陥」は、確かにある。同様に美術作品も作者の意図が観客に100%伝わるとは限らない。谷口にはむしろそれを避けている節が見られる。

谷口は詩中、隠喩・直喩・換喩などの比喩を駆使し、全く別々のイメージを、共鳴させ意味を重層化させることによって、観客に様々な解釈の糸口を提供しようとしている。

難解な詩である。「私=大文字のI」と「それ=主体(大文字のIT) 」(「それ」が主体であることはどこにも明記されていない。谷口自身の口から聞いた言葉である)の会話によって成り立っている。一読すると、スターウォーズの一シーンかブラックホールの生成過程かと思いたくなるほど「爆発」とか「軌道」とか「微塵」とかの言葉が舞う。「それ」が「主体」を指す言葉であることを知らなければ。しかし、そうかと言ってたやすく理解出来るものでもない。谷口はアーティスト・ステートメントのなかで「既に決められたことを受け止める主体は隠されたくぼみと共生することで可能性を見つけるかもしれない」とラカンの言葉を引用している。ラカンについては、明るくないが、ラカンの「主体」は「鏡を見るという象徴的なレベル(言語活動)を含んだ経験によって形成されてくる。」という。つまり、「人間」がことばの主人なのではなく、ことばの次元の中で「人間」が作られる。では、その主体が「くぼみと共生する」とはどういうことなのであろうか。推測の域を出ないが、従来のシニフィアンとシニフィエの関係に破綻が訪れ、他のシニフィエにすり変わることによって安寧の位置を確保するのではないだろうか。

「詩」中、「登場人物」である「私」と「主体」が分離し、互いに会話を交わしている。主体には無意識も意識も含まれている。そしてラカンは、無意識を構造化された言語の場(他者の言質)と定義づけている。では「私」とは何なのか。主体が鏡像の中にはじめて「私」を見出すのである。この「二者」の会話は何を意味しているのだろうか。宇宙の星の爆発・生成を「自己崩壊」から「自己複製」(無意識におけるシニフィアンとシニフィエの関係による主体の破壊と生成を他者の言葉で)への過程として、あるいは、無意識における言語活動の崩壊から複製としての再活動を、比喩的に描いているのではないだろか。天地創造の場面としても、スターウォーズで破壊された宇宙船の描写としても、いかようにも解釈できる。谷口は「主体」という言葉を作品のどこにも明示も暗示もしていないのだから。確かに、観客に多様な解釈の糸口を提供している。

モニターに流れる映像は、詩に表現されている激しい動的な状況とは裏腹にほとんど静止画像である。四囲を建物で囲まれた地点から方形の空を仰ぐ。方形の中にだけ時間が流れる。空の表情が刻々と変化する。突然、空から鳥が落下する。時間が遡及しているのだ。低く抑えた谷口の声音が、静止画像にかぶり、詩を詠いあげる。静のイメージに動の言葉が重なる。人間の「無意識」で繰り広げられる「爆発」。「時間」とともに「塵芥」で埋め尽くされる「くぼみ」。ことばの破壊と生成が静かに進行する。綿密に計算しつくされた画面構成、考え抜かれた詩、そして吟詠。その全ての要素が極力抑制され、ミニマルな表現になっている。

谷口はゲインズの教えどおり「ことば」と「イメージ」を見事に使い分け、一作品として止揚させている。

 

コンテンポラリー アート ギャラリー Zone  代表 中谷 徹

アーティストトーク

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