コンテンポラリーアートギャラリーZoneを開設してちょうど1年目の節目として、Zoneで個展を開いたアーティストと今回が初参加のアーティスト、計9名による小品展を昨年12月に開催した。
右壁面には、2作家によるフォトイメージの作品がお互いの持ち味を際立たせ、好対照を成していた。デジタルイメージを駆使した橋本の作品「記憶という名の回路」は、奔放な色彩とイメージのディスロケーションによって従来のコラージュの技術的な困難さを難なくのり越え、記憶と知覚の相互的な異化を容易に成し遂げている。一方、ゼラチンシルバープリント(銀塩写真)によるカーティスの作品は、「岩」という不動の対象にレンズを向け、岩肌が織り成す形態を心理的な鏡として、観客の心模様を読み解き静かな思索へと誘っていた。
正面のやたみのりと橋本あやめの作品は、平面と立体との違いはあっても、コラージュやアッセンブラージュという共通の技法を駆使し、本来無視され捨て去られる「物」をファウンドオブジェクトとして、美術の文脈にとりいれている。生き生きとした色彩によるナラティブな構成のやたと、かわいさと愉しさが溢れる橋本の作品は、通りすがりの人々や来客の目を和ませていた。
左壁面には、あたかも共通のテーマで制作したような浅山と中谷の作品、ともに不可思議な「生」への興味が見て取れる。
浅山の「安息地」と「細胞」は、いずれも現実の「生」のなまなましさがある。布によるレリーフの「安息地」は女性器を模り「性」を、様々な濃淡の錆が浮かぶ渦巻状の形態からなる「細胞」は、増殖と死滅を暗示するように「生」を、表現している。4月の個展では、子宮を連想させる形態を提示し、女性特有の身体特徴など女性にかかわる全てのものを素材として、ジェンダー問題に言及していた。浅山の意識の根底には「女性」がある。
中谷は、「人間とは」「生命とは」と、遠い宇宙に、地球の誕生に、人類の起源に思いを馳せた時に、今回の作品「生命の循環」が生まれたという。ヒトゲノムを解読するように、観客が画面に潜んでいる染色体を模したアルファベットを解読する行為を通じてこの作品は完結する。体温を感じる浅山の作品とは異なり、中谷の作品にはもっとクールな「生」へのゲーム感覚がある。
フロアーでは、高低の異なるペダストールに篠原と笹埜の作品が、小品ながらもそれぞれの領域空間を主張している。天井からは、吊り下げられた池田の作品がのんびりと空間に浮かんでいる。
篠原の作品「今のかたち」は、円錐と27の小さな立方体からなる手のひらに載るような小さな作品である。その形態は慈照寺の向月台を髣髴とさせるが、その円錐の側面は、侵食されたように抉れている。かろうじて、先端部は残され円錐の形を成す。作品の持つ幾何学的でありながら非合理な表情は、現在の人間と自然の関係を批判的に暗示しているのだろうか。
笹埜はオブジェの記号化を試みている。透明のプラスチックのボックスにはギターのネックの先端部が、卓球のラケットのグリップの部分が、バケツの取っ手など用具の一部分が、無造作に投げ込まれてある。作品のタイトルは、「AIR LIFE」。オブジェを記号化することにより、意味するもの(シニフィアン)と、意味されるもの(シニフィエ)の関係を表している。観客が直接作品に触れ、参加することにより、失われた部位が補完される。エアーライフは現代の記号社会そのものである。
池田の作品は、6月の個展「屋根つき商店街」からの展示である。天井から吊るされた作品を眺めると、改めて池田の縦横な機知に驚かされる。蚊取り線香や小麦粉の袋に屋根をつける、新しいPOPな感覚である。
バラエティにとんだメディアが現代アートの状況を表すように、今回の展覧会はメディアのバウンダリーを越えたより今日的な展示であった。それぞれの強烈な個性の領域をお互いに侵犯することなく引き立てあい、グループ展の持つよさを十分に引き出すことができた。 コンテンポラリー アート ギャラリー Zone 代表 中谷 徹 |